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【環境学習参考情報】 歴史・文化

鳴尾

番号地図のポイント番号です

概要

「なるを」の起源は約1800年前と言われていています。鳴尾の一本松は、平安時代の歌や室町時代の謡(うたい)にも詠(よ)まれています。しかしながら、現在の鳴尾地区は、万治(まんじ)2(1659)年の「戸崎(とざき)切れ」と呼ばれる武庫川・枝川からの大洪水によって土砂が堆積(たいせき)して形成されました。その後、枝川の決壊で申川(さるかわ)ができました。両川とも現在は道路となっていますが、鳴尾地区を歩けばその名残を発見することができます。

天正(てんしょう)年間(16世紀)、瓦林(かわらばやし)村との水争いがあり、その歴史を伝える鳴尾義民(ぎみん)碑が北郷(ほくごう)公園にあります。

「なるを」の幕末から明治維新のころは、鳴尾村、小曽根(こそね)村、小松村、上田新田村、小曽根浜村(その後小曽根浜村はなくなりました)の5か村でした。明治22(1889)年4月1日、町村制施行によって鳴尾、小松、小曽根、上田新田の各村が合併して新しい鳴尾村が誕生しました。

昭和26(1951)年4月1日には、鳴尾村62年の歴史を閉じ、西宮市と合併しました。「合併か単独市政」か「西宮市か尼崎市」か、鳴尾村民は、この地域の将来を住民投票という方法で選択したのです。

鳴尾はスイカやイチゴの名産地としても知られましたが、現在では、畑がほとんどありません。また、競馬場や飛行場もありましたが、現在では甲子園球場が全国的な知名度をもちます。

この地区は、別章のなぎさ街道と重複するお話がたくさんありますので、なぎさ街道のページとあわせてお読みください。

「なるを」の起源

「なるを」はいつごろできたのでしょうか。「なるを」に人々が住むようになったのは、古く神功(じんぐう)皇后が朝鮮半島への遠征から帰国して廣田神社創建の詔(みことのり)を下した、今から約1800年前のころであろうと考えられます。推定では、武庫川の河口は現在のJR 神戸線よりも北側にあったと見られています。河口は大小数多くの洲が点在し海岸一帯は遠浅の瀬になっていたと思われます。

人々は甲山や六甲山の山麓に住んでいましたが、島や洲がだんだん大きく拡がるにつれ、漁場まで行くのに相当な時間がかかるようになりました。そこで、通い漁師をやめ、島や洲に小屋を建て、そこに住みついて、直接漁場に行くようになったのでしょう。

「なるを」の名称の由来は、大阪湾に長く突きだしていた洲の上に葦(あし)や葭(よし)が密生したことにあるという説があります。その形がケモノの尾のように見え、それがナリ尾、ナル尾と呼ばれるようになったと思われます。また、緩やかな傾斜地を意味する「ナル」と先端を意味する「尾」が合成されたという説もあります。その他、この洲の上に住みついた海鳥の群がナキ叫ぶのから、ナク尾からナル尾となったとも鳴尾の人々に伝えられています。

戸崎切れ

枝川は、弘治(こうじ)3(1557)年8月26日の洪水で武庫川から分流してできたと言われています。

ときがたって、万治(まんじ)2(1659)年5月22日、鳴尾の歴史を一変し、一木一草すべてが新しく出発したという、全村流出の災害が起きました。村人たちが「戸崎(とざき)(兎崎)切れ」と伝承してきた武庫川、枝川決壊による大洪水です。

武庫川、枝川分岐点付近(現戸崎町)の堤防が約500m(200余間)に亘って決壊し、濁流渦巻き、人家はもちろん学文殿(がくぶんでん)町あたりにあった西方寺(さいほうじ)(現在は鳴尾3丁目にある)の本堂までも流出するという大惨事でした。岡太(おかだ)神社の諏訪社も御神輿(おみこし)とともに流出し、御神体(ごしんたい)は和田岬に漂着しました。現在は和田神社の祭神となっています。この洪水で当時、旧街道付近(里中町・上(あげ)鳴尾町・甲子園六番町・七番町)以北に点在していた集落すべてが流されたと伝えられています。

この洪水で鳴尾に流れ込んだ土砂の量は膨大で、現在の海岸線(最近の埋立地は別)近くまでが、陸地または浅瀬となりました。自然の埋立工事があったようなものです。正徳(しょうとく)元(1711)年、洪水から50余年後に開始された、上田新田の開拓に始まり、明治19(1886)年の干ばつによる難民救済埋立工事で完成した前浜開拓まで、176年間におよぶ鳴尾の新田開拓史の素因となったことは事実です。新しくできた開拓地のことは、<なぎさ街道>の「高須の変遷」「鳴尾と飛行機」「鳴尾浦」「鳴尾競馬場」「鳴尾運動場」の各項をお読みください。

なお、申(さる)年にあたる元文(げんぶん)5(1740)年7月、洪水で枝川が決壊して今の甲子園球場あたりから支流が生まれました。この川は、申年に因んで申川(さるかわ)と名づけられました。

阪神電鉄の貢献

明治38(1905)年4月12日、阪神電鉄が営業運転を開始しました。以後、阪神電鉄は枝川・申川(さるかわ)廃川跡地を買い取るなど、この鳴尾の発展に大きく貢献しました。開業して3年後、阪神電鉄よって鳴尾の家々に、文明の灯といわれた電灯が点灯されました。明治41(1908)年10月5日のことです。この日から鳴尾の人々、とくに子どもたちの生活様式に変化が起きました。電灯が普及するにつれ、日課のひとつであったランプのホヤのスス掃除から解放され、夜も勉強できるようになりました。

大正時代になって阪神電鉄は、鳴尾農業会と協力して鳴尾のイチゴ狩りを催しました。宣伝に力を入れたので一躍、鳴尾名産イチゴの名が有名になりました。明治30年代に鳴尾で初めてイチゴの栽培に成功した鎌倉作蔵という人の努力や農家の栽培の苦労が、阪神電鉄の協力で花開いたのです。記録によると昭和3(1928)年度のイチゴの作付け面積は180余町歩で、これは鳴尾全農耕地の約半分にあたりました。

鳴尾の農業と特産品

鳴尾の農業は他の農村と同じく稲作が中心でした。しかし、土地の多くが砂地であったため、普通の村よりも多くの水が必要でした。貴重な農業用水をめぐる、天正(てんしょう)の鳴尾義民(ぎみん)、北川用水など歴史に残る水争い(鳴尾地区参照)がたびたび起きました。

ところが、1659年の戸崎(とざき)切れの大災害以降、鳴尾の農業が一変しました。稲作から綿作中心となったのです。その後、灯油の原料となる菜種作りが盛んになりましたが、電灯の普及ですたれてしました。

「なるをに過ぎしは寺、スイカ」と古くから鳴尾に伝えられています。スイカは砂地の畑と太陽の照り、そこに適した給水が西瓜の成長を助け、名産となりました。イチゴも大正年代から昭和のはじめにかけて栽培が盛んになり名産でした。

旧武庫川線

3本のレール:省線(国鉄)と阪神電鉄の武庫川線

第二次世界大戦の時代、武庫川の河口のあたりに川西航空機という軍需工場ができました。その工場に人員や資材を運ぶため鉄道が必要になりました。国鉄(現JR)は、今のJR 西宮駅を起点に東へ、武庫川西岸の堤防に沿って、現在の阪神電鉄武庫川洲崎(すざき)駅まで線路を敷設しました。完成は昭和19(1944)年11月14日です。阪神電鉄は、すでに国道2号線の武庫大橋から洲崎まで営業運転していましたから、半年の間、この区間はレールが3本になって、阪神電車と国鉄が一緒に運行しました。武庫川堤防沿いにSL が走っていたのです。

枝川樋門

枝川樋門

西宮の街づくり、ひいては阪神間の都市形成にも大きな影響を与えた歴史を伝えるモニュメントが、この枝川樋門(ひもん)1です。

決壊を繰返す武庫川の洪水対策は、地元の鳴尾村や周辺の地域にとって焦眉(しょうび)の問題でした。一方、明治以降、近代産業の成長や貿易拡大に伴い、商都大阪と貿易港神戸を結ぶ従来の国道(旧中国街道)に代わる大動脈の建設が課題となりました。この国道建設は結局、大正8(1919)年から現国道2号線として建設されましたが、当時の土木技術水準からみても、また費用の点でも武庫川改修と架橋が問題でした。さらに大阪・神戸および阪神間の新興都市住民の要求に応えた大規模なスポーツ・レクリエーション施設用地が求められていました。

こうした懸案を一挙に解決する妙案として浮上したのが、洪水の一因ともなっていた枝川と申(さる)川を廃川処分し、そこで生まれた新しい土地を売却した利益金で武庫川の抜本的改修と新国道を建設するという案です。

大正9(1920)年、まず一期工事として枝川・申川の廃川埋立工事が始まり、大正12(1923)年に竣工しました。これにより生まれた土地は80.7ha(22万4千坪)。工事費に100万円を加えた410万円で阪神電鉄に売却しました。

阪神電鉄はこの買収した土地を甲子園と命名、スポーツ・レクリエーション施設と住宅経営地として開発を行いました。治水で安全性が高まった鳴尾が住宅地として発展する端緒(たんしょ)となりました。

しかし、武庫川を廃川にするという計画もありました。大正3(1914)年5月、鳴尾村議会の武庫川改修案の決議です。その内容は「枝川分流口から枝川・申川を本流とする」「廃川となる武庫川の中央に、幅8間の溝を設ける」などです。結局、この構想は実現しませんでしたが、もし、決議通りになっていたら、鳴尾地区の風景はどうなっていたか想像してみるのもおもしろいでしょう。

武庫川女子大学甲子園会館

武庫川女子大学甲子園会館22の前身の甲子園ホテルは、昭和5(1930)年に竣工しました。その建物を昭和40(1965)年に武庫川女子大学が譲り受け、教育施設として再生したものです。

この建物は、ホテルとして中央に玄関・フロント・メインロビーを置き、左右に大きく食堂と宴会場とを張り出し、その両翼の上階に独立性を保ちながら集約された客室群を階段状に配したライト式建築です。設計は、フランク・ロイド・ライトの愛(まな)弟子、遠藤新(1889〜1951)が手がけました。当時、帝国ホテルのマネージャーで、ホテル界の第一人者といわれた林愛作の理想に基づいて計画されたもので「東の帝国ホテル(明治村で建物の一部を保存)、西の甲子園ホテル」と並び称され、皇族、政財界人、上級軍人などの社交場として賑(にぎ)わいました。日本に残る数少ないライト式建築、さらに打出の小槌(うちでのこづち)を主題にしたオーナメントや緑の瓦、西ホールの天井の障子など、日本の伝統美を生かした洋式建築は、今も名高く、建築の専門誌や新聞などで紹介されることも多いのです。平成18年(2006)年には、ここに生活環境学部建築学科が開設され、武庫川女子大学オープンカレッジに学ぶ人々をはじめ、一般の見学者も数多く訪れます。

鳴尾義民碑

鳴尾の義民碑

田畑の灌漑(かんがい)には縦横に巡らした水路が必要で、水路を懸命に整備しても日照りが長く続くと、しばしば農民の生死をかけた田畑の水争いが起きました。砂地の多い鳴尾にとって、水はことのほか重要です。その水争いの中で、とくに厳しかったのが天正北郷樋(てんしょうほくごうひ)事件と呼ばれるものです。

1557年に武庫川から枝川が分流し、その枝川が通過する瓦林(かわらばやし)村では、村を水害から守るため、堤防を築きました。下流の鳴尾村では武庫川の伏流水(ふくりゅうすい)などを水源にした灌漑用水路を整備していましたが、築堤(ちくてい)で大切な水路を遮断されました。しばらくの間、両村の利害を調整して枝川の川底に樋を設置していましたが、簡単な樋では梅雨時の大雨の度に破損してしまいます。鳴尾村では、3年間の日照り続きで稲は枯れそうになり、村人たちは雨乞いをしたり、青々と稲の育つ瓦林村に水を分けて欲しいと頼みましたが、水は大事と断られました。

飢え死にするのを待つか、秋の実りを残すかということになり、村の長老たちが考えました。水を盗むのは悪いことであり、お上に知れると死刑になります。長老たちは家族のことを思い浮かべました。しかし、村の命運がかかっているので「やろう、やるしかない」と決議しました。その夜から鍬(すき)や畚(もっこ)など持って集まりました。下瓦林の用水(現新堀川にあたる)から水を取るために、北郷公園のところから枝川の川底の下にトンネルを掘り、そこに空の4斗(と)樽の底を抜いたものをつないで並べました。トンネルの出口の場所は今の北郷(ほくごう)公園のところです。

瓦林側から取水を図ったのに対し、水不足と堤防の破損を恐れた瓦林側は実力阻止に出ます。これが発端となり、天正(てんしょう)13(1585)年以来、両村の村民が付近の村々の応援も得て、大争乱を演じ多数の死者を出すに至りました。この騒動は大坂の豊臣氏に訴えられました。前田玄以(げんい)、長束正家(ながつかまさいえ)、増田長盛(ながもり)ら豊臣奉行衆が取調べた結果、鳴尾村の水利権を認めました。なお、このときの裁許状は現存しています(西宮市文化財指定)。

裁判にあたったとされる片桐且元(かたぎりかつもと)の話が鳴尾村に伝わっています。自首してきた村人に対し、且元が「水が欲しいか、命が欲しいか」と尋ねたところ、村人は迷わず「水が欲しい」と言いきりました。そこで、且元が「(トンネル作りに使った)樽の個数と同数の者を死刑にするが、樽の数は何個か」と聞きました。村民が「20とちょっとつなぎました」と答えると、且元は、「よし25人打ち首だ」と裁定を下しました。本当は樽を100以上使わなくては届くはずはありません。且元はこれを承知で、25という数を決めたのでした。同時に騒動を起こした罰として、瓦林村26名も鳴尾村25名と一緒に大坂で処刑されました。天正20(1592)年10月12日のことです。なお、この騒動のことは奈良にも伝わり、興福寺(こうふくじ)の記録には処刑人数までも記載されております。

この事件以来つい近年まで、鳴尾側から用水供給の礼として酒肴(しゅこう)(蛸(たこ))を瓦林側に贈るという儀礼が続いておりました。

昭和15(1940)年に北郷公園に義民(ぎみん)3が建てられ、当時の農民の水に対する思いを今に伝えています。

4世紀後の大正年間、枝川・申(さる)川廃川工事の際に、北郷の暗渠(あんきょ)に使った資材が川底から掘り出されました。それらは4斗樽でなく、立派な楠材(くすのきざい)でした。考えてみれば、底の抜かれた樽では外から加わる圧力で簡単に壊れてしまいます。樽としたのは暗渠の計画性を隠す後世の鳴尾村民の知恵であったとの口伝(くでん)もあります。掘り出された楠材は第二次大戦中の用材不足のため防空壕(ごう)に再利用されましたが、戦火で焼失しました。

なお、現在でも、約400年前に掘られた旧枝川の川底の下に作られた暗渠の名残を現在たどることができます。義民(ぎみん)碑の東側に溝がありますが、それをさかのぼると、その溝は甲子園筋(旧枝川)の下をくぐり、甲子園筋西側の住宅の間を通り、上甲子園1丁目に抜けています。現在はここに新堀川がありますが、当時、このあたりを流れていた下瓦林の用水から水を取ったと思われます。

浄願寺

淨願寺(じょうがんじ)4は、甲子園6番町10の18にあります。寺伝によると、正慶(しょうきょう)元(1332)年に開基された浄土真宗仏光寺派です。開基当時は今の小松町に建立(こんりゅう)されていましが水害にあってこの場所に移りました。境内の最も日当たりのいい場所に義民(ぎみん)の墓があります。

天正北郷樋(てんしょうほくごうひ)事件で命を賭して子孫のために水を残した先祖25名の遺徳を慕って、天明(てんめい)7(1787)年に鳴尾村民が境内に建てた「北郷開樋(ほくごうかいひ)殉難者(じゅんなんしゃ)之碑」が今も残っております。そのほか、寺宝として、義民によって得られた水利権の許可証と、義民の掛軸があります。掛軸には、中央に南無阿弥陀仏の文字があり、それを囲むように殉難者の法名と俗名が書かれています。殉難者の命日は10月12日ですが、農家は秋の稲刈りなど多忙という理由から、毎年4月12日に法要が営まれ供養されています。その際、この掛け軸が掲げられます。

なお、昭和45(1970)年には、ライオンズクラブが、八ツ松公園に顕彰碑(けんしょうひ)を建てています。

中国街道小松の渡し

元禄(げんろく)5(1692)年4月、ドイツ生まれのケンぺルが江戸よりの帰路、中国街道を尼崎から小松の渡し5で武庫川を越えて、鳴尾にさしかかりました。そのときの紀行文が『江戸参府紀行』ですが、その中に西宮のことが記されています。

小松の渡しを越えると、そこは武庫川下流の新田地帯です。岡太(おかだ)神社を左に見ながら白い花が広がる綿畑、右を見れば田に豊かに実る米(表作)麦(裏作)など尼崎側より土壌に恵まれている西宮の様子が見えたはずです。

ケンぺルは「若い牛が鋤(すき)をひいて田を耕しており、土地はやや乾燥し、砂地で良くはないが人糞を入れて、たいそう肥沃(ひよく)で小麦・大麦があふれるばかりに作られている」と書いています。農業生産の高まりが感じられます。

享保(きょうほう)14(1729)年4月19日、この中国街道を珍しい象の行列が通りました。長崎から江戸の八代将軍吉宗(よしむね)公に献上するためです。途中、京都で天皇にもお見せすることになっていましたが、位と官職のないものは、天皇に会うことができません。朝廷ではやむなく、この象に位を与えることにしました。「従四位広南白E」でした。小さな大名より高い位です。このようにして「E 様」のお通りとなりました。

六石の渡し

鳴尾から中国街道を西に向かうと今津との境には枝川が流れていました。普段はほとんど水は流れていません。当時はずっと続く松林。今の春風小学校あたりは小高い土盛の堤防があったようです。阪神電鉄が運行して、人通りが少なくなったころの六石(ろっこく)の渡しは、昭和の初めまで樹木が茂り、昼なお暗いところでした。曲がりくねった街道、そこでときどき人が襲われたといいます。元気のよい若い衆もこの六石の渡しだけは敬遠し、西宮に歩いて行くときは、浅右衛門通から中津に出て今津を通って行きました。鳴尾の人々にとって六石の渡しは、大手をふって通れぬ道でした。西宮、今津、瓦木などから帰ってきて、四軒茶屋の家々の灯が見えるとほっとしたと言います。

昭和27(1952)年には今津六石町と呼ばれ、昭和39(1964)年から甲子園六石町になりました。六石の渡し6には、ふだん、枝川に杭を打ち込みその上に板を渡した簡単な橋がありました。ところが雨が続いて川の水が増水すると、板を引き上げて、船渡しになりました。水かさによって{船頭一人の一本櫂(かい)}{船頭二人の二本櫂}{船頭三人の三本櫂}と決められており、水かさがこれ以上になると川留めとなりました。

六石の渡しの西側は今津です。渡しの両岸にある茶店で餅を売っていたのが評判になり、毎日六石(840kg)の餅を売ったとされます。これが、六石町の名前の由来です。六石というと相当の量ですので、この地の米の収穫量だったとの考えもあります。しかし、六石の餅とした方が情緒豊かで楽しいでしょう。餅だけでなく「摂津名所図会(ずえ)」に名産の鳴尾西瓜(すいか)<鳴尾村より多く出づるを上品とす>とあり、武庫川の伏流水(ふくりゅうすい)の通る井戸水で冷やしたものを四軒茶屋の茶店で旅人に供(きょう)したものが有名となりました。

甲子園球場とその周辺

甲子園球場(旧枝川・申川分岐点)

電車は、すでに明治38(1905)年、大阪出入橋〜三宮間を開通しており、近くに小さな鳴尾駅がありました。西畑(にしはた)(現在の甲子園駅東側西畑公園付近)7では、明治42(1909)年ころ、高級文化住宅地が開発されて、70戸ほどの文化住宅が建ち並びました。その中には、作家の佐藤紅緑(こうろく)氏(娘は作家の愛子氏)や森繁久弥(もりしげひさや)氏(当時は少年)も住んでいました。

昭和8(1933)年8月に佐藤紅緑氏は、豪邸を建て移り住みました。そのあたりは大邸宅が多かったのですが、その中でもひときわ目立つ洋風の大邸宅8でした。その場所は、現在の甲子園2番町8の44です。

森繁さんは、鳴尾小学校に通っていました。友達と枝川で鮎(あゆ)取りをしたり、松や竹の茂った枝川の土手や雑木林で遊んだりしたこと、イチゴ畑が広がっていたことなどを今でも覚えていらっしゃるようです。

阪神電鉄は、買収地に球場・運動場・娯楽施設・住宅地などを、次々に開発していきました。とくに、枝川・申(さる)川の分岐点跡地に造った大球場は、大正13(1924)年、干支(えと)の甲子(きのえね)にあたる年にできたことから、甲子園球場と名づけられ、球場を中心に、「甲子園」がつくスポーツ・娯楽施設・住宅地が発展していきました。

阪神甲子園駅は、甲子園球場の完成式と同じ大正13(1924)年8月1日に臨時駅として開設し、大正15年(1926)7月16日、常置駅となりました。この甲子園球場および付近の土地が、武庫川改修工事で廃川となった枝川・申(さる)川の河川敷だったことを知る人は少なくなりました。球場は両川の分岐点に建設されたもので、球場周辺に残る松林は当時の堤防の名残です。

中津

球場の南西一帯は、枝川・申(さる)川の間の三角州だったところで、中津と呼ばれています。この地は、申川ができる以前の元文(げんぶん)3(1738)年ころから砂浜新田の開拓がはじまっていました。

また、同時期に辰馬(たつうま)氏により砂浜神社が創立され、浜に向けてまっすぐな馬場先が作られ、その両脇には松が植えられました。寛延(かんえん)3(1750)年に桜町天皇陛下金巾子御冠が神社に下賜(かし)せられたときの参道です。馬場先の端(浜)に戎神社がありました。砂浜神社は小高い丘になっていて、大木が茂り、住民の憩いの場でもありました。

昭和20(1945)年8月6日に大空襲をうけ、戦後、この丘も平らにならされ、今は中津公園9になっていて、お年寄りが興じるゲートボール音や子どもたちの遊ぶ声が飛び交っています。

なお、砂浜神社は、大正元(1912)年、鳴尾八幡神社に移されています。

上鳴尾墓地

(あげ)鳴尾墓地10内に、鳴尾村の領主だった佐々氏(さっさうじ)の13層の供養塔があります。

佐々氏が鳴尾村(小曽根(こそね)、小松は別)の領主になったのは天正13(1585)年のころと推定されます。初代領主は佐々政治(まさはる)です。そして5代目の佐々成澄が元禄11(1698)年、同僚と刃傷沙汰を起こし、所領没収、家名断絶となりました。その間、2代目領主となった佐々長成(初代政治の弟)に知行地(ちぎょうち)鳴尾の支配を託されたのが佐々伴左衛門(初代政治の孫)です。伴左衛門は天正の兵火で焼失したといわれる西方寺(さいほうじ)を、ときの住職、重誉(西方寺中興の祖)とともに再建するために尽力しました。これにより同寺は佐々氏累代の菩提寺(ぼだいじ)となり、このとき、佐々氏の供養塔(くようとう)(13層)が建てられたといいます。正保(しょうほ)元(1644)年のころです。この供養塔は、所領没収、家名断絶のとき、西方寺正門の山門下の土中に埋められました。後の支配者に遠慮してのことですが、佐々氏がその知行地、鳴尾村を失って146年たった天保(てんぽう)15(1844)年に、西方寺の住職と濱、高須両庄屋の3人の発議で、上鳴尾墓地に移され修復しました。このことは、佐々氏の治政のときの恩恵を鳴尾の人々が忘れずに受け継いだのはもちろん、佐々氏が天正(てんしょう)の水論での有利な解決や万治(まんじ)の戸崎(とざき)切れ災害の復旧に尽くしたことが、鳴尾の人々の胸中に、苦労の時代として忘れられなかったのでしょう。

鳴尾八幡神社

鳴尾八幡神社11の祭神は、皇大神・砂浜大神・琴刀比羅神・応神(おうじん)天皇です。

社殿は、文化8(1811)年に再建された瓦葺(かわらぶき)拝殿に、檜皮葺(ひわだぶき)三社春日造りです。本殿は当時近郊においては珍しい様式でしたが、惜しくも平成7(1995)年の阪神大震災でほぼ全壊してしまいました。その後、平成12(2000)年3月31日に再建復興され、新しい社殿となりました。

神社伝承によると八幡神社創建は、「文安(ぶんあん)年代(1444〜1448)に創建される」とあり、兵庫県神社誌には「由緒、創立年月不詳なれども鎮座地の鳴尾本郷は文明年代(1469〜1488)既に人烟(じんえん)(さかん)なる処なれば当村の創立も其以前の事なるべし。其後、本村七箇村一郷の鎮守と仰ぐ」とあり、神社伝承の創立年代を裏付けています。

八幡神社には多くの神々が合祀(ごうし)され、鳴尾本村ほか7か村の総鎮守(ちんじゅ)の社(やしろ)、人々の氏神(うじがみ)として、広く信仰を集めてきました。宮司(ぐうじ)さんのお話では、その参道は海(現阪神パーク近く)までも続いていたそうです。毎年、夏祭りは、7月9日、秋例祭は、10月20日に行われています。阪神電鉄が開通したころの秋祭りでは、神輿(みこし)、太鼓などが、神社の前の踏切を渡るとき、数十分に亘(わた)って電車を止めたそうです。現在のように電車が高速になって、電車が通過するのを人が待つというのが常識となっているのを思えば、苦笑せざるを得ない実話です。

一本松

わが身こそ 鳴尾に立てる一つ松 よくもあしくも またたぐいなし

鳴尾の一本松は平安時代より、この地を旅ゆく人や舟人たちにも目印になる巨木で樹齢は千年に及ぶといわれていました。

朝日が昇ると一本松の影が須磨の一ノ谷まで、夕日が沈む時は奈良の手前の暗がり峠まで届いたといわれています。京都の貴族をはじめ多くの人がこの一本松を歌に詠(よ)んだほど有名でした。

2代目の一本松は甲子園七番町にあり、昭和の初めの頃まで、その旧株が残っていましたが、今はその場所も定かではありません。

3代目は里中2丁目にありましたが、昭和19(1944)年の水害で、塩害のため枯れてしまいました。4代目は育たず、昭和53(1978)年3月、この地にライオンズクラブの人々によって5代目の松12が植えられ、今に至っています。

弘化(こうか)2(1845)年8月にこの地の有志高須氏らが建設した鳴尾孤松碑があります。

岡太神社

一時上臈

岡太(おかだ)神社13は、天地創造の神天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)が祭られています。

廣田村の岡司氏(おかしうじ)がこの地を開拓しましたが、沖から潮があがって五穀が実らず、故郷の廣田神社にお参りしたところ、夢でおつげがあり、この地に神社を建て祈ったところ、豊作になったといわれています。

岡太神社を「おかしの宮」ともいいます。創建者が岡司新吾という人だから、また、この神社の前を通るとき、着物の裾(すそ)を高くあげなければならないという風習があり、その変な姿がおかしかったからという説もあります。

この神社には「岩見重太郎(じゅうたろう)」伝説があります。昔、この岡太神社の森に大きなヒヒが住みつき、村人に無理難題をふっかけ、それが聞き入れられないときは、家をつぶしたり、作物を荒らしたりしましたので、村人は困り果てました。あるとき、ヒヒは毎年ひとりずつ、かわいい娘を神社の森に連れてくるように言いました。家の屋根に白羽の矢が立つとその家の娘が行かねばなりません。あるとき、岩見重太郎という豪傑が来て、その話を聞き、女装して長持(ながもち)に入って神社の森で待ち伏せて、ヒヒを退治しました。その後、娘の身代わり人形を神社に奉納しお祭りするようになったといわれています。岡太神社には男性が女装してお供物をするお祭り「一時上臈(いっときじょうろう)」が行われています。このお祭りは西宮の重要無形民俗文化財に指定されています。「平重盛(たいらのしげもり)」伝説もあります。平重盛は、鳴尾あたりを領地として京都に住み、別宅を小松の庄に持っていました。そこには20〜30軒くらいの家がありましたが、浜さんと樋口さんの2種類の姓でした。浜さんは武庫川を越え尼崎から来た親族でしたが、樋口さんは、平重盛が屋敷を築くとき功績のあった人に与えた姓とされています。源平の合戦後、壇ノ浦で全滅し、領地も没収されました。岡太神社には平重盛の供養塔、十三重塔があります。

鳴尾散策コース

JR 甲子園口駅に集合してスタート地点の枝川樋門に向かいます。地形的にも扇の要にあたる枝川樋門を出発、武庫川女子大学甲子園会館、鳴尾義民碑、六石(ろっこく)の渡し、甲子園球場とその周辺を経て浄願(じょうがん)寺、上(あげ)鳴尾墓地、八幡神社、鳴尾の一本松、岡太神社で終着です。武庫川が母なる川であることを実感できる典型的なコースです。

語り部マップ
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