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【環境学習参考情報】 歴史・文化

西宮は西の都

1.はじめに

●西宮の概要

私たちが住む西宮市は、兵庫県南東部の阪神地域の中央部に位置する、面積約1万ha、人口約45万人の都市です。

市域の北は神戸市・宝塚市に、東は武庫川を境にして尼崎市に、南は大阪湾に、西は堀切川を介して芦屋市にそれぞれ面しています。

気候は概して温暖であり、山や海などの景勝地に恵まれ、早くからリゾート地域や別荘地として注目されたこと、大阪・神戸の中間にあり、明治以降交通施設の整備が進んだことなどから、自然環境豊かな住宅都市として発展しています。

西宮市は市町村合併の経緯により、南北に細長い形をしています。中央部には瀬戸内海国立公園の指定を受けている六甲山があります。

●自然はダイナミック

六甲山の造山活動や、武庫川をはじめとした大小の河川の働きなどにより、西宮は複雑な地形で構成されています。

多様な自然環境は、豊かな緑の背景や自然の軸線になって深みのある都市景観の基盤を形成していますが、時として甚大な被害を都市住民にもたらすこともあります。自然環境の基礎になる地形は、もともと地殻変動や火山活動などによって造られた地表面に、さらに風化や流水などの力(浸食・運搬・堆積作用)が加わり、形造られたものです。

私たちが災害と感じる、地震、豪雨、洪水、高潮、山地崩壊、土石流などは、いわば、地形をつくりだす自然の力の表れにすぎません。

人間の一生に比べ、地形の変化はタイムスパンが長すぎるため、また都市化により大地の自然な姿が分かりにくくなっていることもあり、地形を変えていくような自然の力を日常的に感じることはそう多くありません。

人間にとっての「自然の恵みと災い」とは、自然にとっては程度の違いでしかないということなのかもしれません。

●本項の構成

安全で住み良い都市を実現するには、ダイナミックな自然とじっくりと付き合っていかなければなりません。

このためには、自然条件(地形の成り立ちや地形を作り出している潜在的な力)を知ること、地形条件が土地利用や都市特性に与える影響を考察すること、災害の経験から教訓を引き出し語り継ぐこと、そして望ましい都市づくりのあり方や都市生活のルールを議論することが大切でしょう。

本項は、西宮の地形条件と都市特性のあらましについてまとめたものです。

まず、みどりのシンボル甲山について述べます。

次に西宮市を形成している山・川・海の3つの大きな自然の力とその対策を、六甲山の成長と砂防事業、武庫川の水害と治水事業、大阪湾の変遷と高潮対策事業として取り上げます。

続いて地形の特徴と土地利用状況について武庫平野、上ケ原台地、六甲山地、塩瀬山地、三田盆地の5つの地形区分で概観します。

最後に、阪神大震災の教訓を今後の都市づくりに生かすため、現在の西宮の都市特性をまとめます。

2.みどりのシンボル甲山

●甲山は神様の山

六甲山の東南端に、西宮の象徴ともいうべき甲山があります。甲山は穏やかな曲線の美しい山であり、その美しさをたたえて「東の富士山・西の甲山」といわれたり、山の高さ(309m)をもじって「魅惑の山」などと呼ばれて、古くから親しまれています。

甲山の名前の由来は「兜」の形に似ているからという説もありますが、神の山が、神山になり、甲山、甲山と転じたのではないかと考えられています。

神功皇后が神意により広田の国に天照大神を祭ったことが、広田神社の起源であるとして語られています。神社は甲山の麓の見晴らしの良い高台にあり、社宝の剣珠は甲山を象徴として造ったご神体ではないかと考えられています。

神呪寺を開いた如意尼は「摂津国武庫山の辺に孤岳、形は宝珠のごときがあり、観音利生の地である。すべからく寺を建立すべし。」という、夢のお告げを聞いたという話が伝えられています。そして寺の名前の由来、神呪は神の尾、神山のなだらかなすそ地の意味と解されています。

●1200万年の甲山

甲山の成立については、比較的新しい地質時代に噴出した粘性度の高い溶岩が固まってできた、つり鐘状のトロイデ火山ではないかといわれた時期がありました。しかし、この説は戦後の詳細な地質調査により否定されることになりました。

甲山をつくっている岩石は、瀬戸内火山帯の代表的な安山岩の一種で、サヌカイトと呼ばれているものです。二上山、石槌山、屋島などにも分布しています。

このサヌカイト類の火山活動期を調べたところ、二上山、石槌山が鮮新世(およそ1200万年前)以前のものであること、甲山安山岩が大阪層群(およそ100万年前)の下部層にあること、甲山の溶岩の成分値が二上山、屋島と酷似していることなどから、およそ1200万年前に生まれた山であることが分かったのです。

分析値から粘性度の低い溶岩であった事が推測できるため、噴火当時は現在より傾斜の緩い大きな山であったものが、その後長い年月をかけて浸食され、火山の首に当たる部分が現在の円い形、トロイデと間違えられるような形、になったのではないかと考えられるようになりました。

●甲山はみどりのシンボル

日本一の富士山でも270万年の歴史といわれています。1千万年を越えて西宮地方を見守ってきた甲山は、まさに神様の山と呼ぶにふさわしい山です。

現在、甲山は国有地になっています。山林は森林法の保安林指定を受け保全されています。また兵庫県が森林公園を開設しており、市民のレクリエーションの場・森林浴の場として親しまれています。

甲山は、悠久の自然を身近に感じられる西宮のみどりのシンボルです。大切に子供たちに伝えたいものです。

3.六甲山の成長と砂防

●成長する六甲山

およそ1200万年前に誕生した甲山に比べると、50〜60万年前に動き始めた六甲山は、世界でも珍しい非常に若い山といえます。

甲山は噴火という火山活動により生まれましたが、六甲山はもともと市街地の数百m下にあるはずの基盤岩が、大規模な断層運動により持ち上げられたものと考えられています。

六甲山地の山腹・山麓に走っている断層は、山体の内側に向かって傾斜している逆断層と呼ばれるものです。これらの断層に囲まれたクサビ型の花崗岩体が、圧縮され押し出されて上昇したのが六甲山です。

平成7年(1995年)の阪神大震災では、六甲山の高さが数10cm上昇しました。六甲山はまだまだ成長を続けています。

●六甲変動と断層

六甲山を構成している花崗岩は、およそ1億年前に形成されたものです。これらの基盤岩類は通常、固くて安定した岩石からなりますが、圧力に抗しきれなくなると破断して断層を生じます。

六甲山が大きな力を受け、低い丘から高い山地に成長するとき、現在みられる断層ができました。この時期の地殻運動を「六甲変動」といいます。

六甲山の南側には甲陽断層、芦屋衝上断層、五助橋断層と200m以上の落差を持つ断層が走り、北側には六甲衝上断層の運動で破壊された断層破砕帯に太多田川が流れ、蓬莱峡などの崩壊地形を作り出しています。

●砂山のような六甲山

六甲山を構成している花崗岩は、六甲変動により破壊されてもろくなっており、その後の風化作用により砂山のようになっています。山腹や渓流にはこれらの崩れた土砂がたまっています。

岩塊や砂は、大雨時に水流に運ばれ土石流となって都市に被害を与えます。また雨水の地下浸透が少ないため、豪雨時には多量の雨が急激に河川に流れ込み氾濫を起こしやすくなります。

特に阪神地域の場合、海岸から4〜5km離れた場所に高さ900mを越える山がそびえているわけで、豪雨による被害を受けやすい環境にあるといえます。

●六甲山の砂防工事

崩れやすい山には木を植えることで、ある程度崩壊を防ぐ事ができますが、豊臣時代の大阪城築城に際して、石材を供出させた代わりに山林の伐採を許したため、明治時代までほとんど木がなく多くの災害を繰り返していました。

明治25年に六甲山地域に大水害があり、明治28年(1895年)になって初めて兵庫県による砂防工事が開始されました。

その後、昭和時代になってからも土砂災害は続き、昭和13年7月には梅雨末期の豪雨により死者670名を出す災害が起こりました。のちに「阪神大水害」と呼ばれたこの災害を契機として、建設省直轄の砂防事業が始まりました。

砂防工事は主に、植林をして緑の回復を目指す山腹工事と、砂防ダムなどを設置して水害時の土砂の流出を抑制する渓流工事とに分かれます。

現在見られる六甲山の緑は、100年にわたる砂防事業の成果であり、砂防ダムも約400基が設置されており、下流部の市街地を守っています。

●六甲山の緑の保全

六甲山の緑は市街地の背景になっており、都市景観上、重要な山地になっています。

都市近郊に住む生き物の安全な生息地でもあり、ハイキングなどで身近に自然の豊かさを実感できる場所です。剣谷や北山は国有林であり、社家郷山(市街地から六甲の緑として見える場所)は市有林です。

また、市街化調整区域、近郊緑地保全区域、風致地区、国立公園などの指定を重複して受け、緑の保全が図られています。

4.武庫川の水害と治水

●武庫川は母なる川

武庫川は、丹波篠山を源流にして三田市を抜け、有馬川、船坂川と合流して、有馬山地に深く美しい武庫川峡谷を刻んでいます。

名塩川や、六甲山の崩壊土砂を多量に生産する太多田川と合流すると、川幅もしだいに広くなり、宝塚市の平野部に出ます。

そして逆瀬川、仁川と合流し、西宮市、尼崎市を貫いて、大阪湾に注いでいます。

武庫川の流域面積は499.9km2、河川延長は65.4kmの二級河川です。

阪神地域はこの武庫川によって産み出された地域です。川はまちの歴史をつくります。武庫川は私たちの「母なる川」といっても過言ではありません。

●親しまれる武庫川

武庫川には、さまざまな伝説が語り伝えられており、古くから生活に密着していた川であることが分かります。例えば、武庫川と猪名川との争い、傷ついた猿も入った武田尾温泉、命をかけた重次郎が渕、夫婦で育てた溝滝の龍、雨乞いに白馬を供えた高座岩、うるしが渕の河童、相場を占う米が渕、野武士を救った生瀬橋、髭の渡しの話などです。

武庫川上流の峡谷は、福知山線の廃線敷跡がハイキングロードとして利用されており、雄大な峡谷美を堪能できるコースとして人気があります。

武庫川下流の河川敷は市街地では求められない広大で連続したオープンスペースです。都市計画緑地の指定を受け、自動車に煩わされずに走れるサイクリングロードも整備されており、市民の憩いの場として親しまれています。

武庫川は、阪神地域の骨格となる自然の軸線であり、生物の宝庫です。仁川との合流点付近は雑草が繁茂し小さな水の流れや湿地もあって、多種の野鳥や昆虫、水生生物などが観察されています。

●平野とは氾濫原のこと

ところで、私たちが生活を営む市街地は、河川の運搬してきた土砂が大阪湾を埋め立ててできた沖積平野にあります。言葉を変えると、河川の氾濫原に私たちは暮らしていることになります。

西宮の平野部は主に、武庫川の氾濫により上流部の土砂が運ばれて堆積し、形成された三角洲から成ります。かつて武庫川は、この三角洲の上を自由に流路を変えて流れていました。

武庫川は、いわば暴れ川であり、過去幾度も決壊して下流部に大きな被害を与えてきました。災害史をみると現在までの1200年間に70回の水害がありました。

●武庫川の除堤

中世以前の武庫川の堤防は、村単位の囲い堤防でした。やがて堤防が延ばされ村と村とをつなぐ連続堤防になっていきます。この頃の堤防は水の勢いを弱めて、ある程度は受け入れるようなものだったようです。

今は残っていませんが、中世の武庫川かその支流の堤防だったと考えられる除堤が、江戸時代まで上大市から高木東町にかけてありました。

戦国時代、豊臣秀吉の頃に、上流から下流まで連続した堤防を造り、流路を一定にすることができました。江戸時代、除堤から連続堤防の間で新田開発が進みました。

●武庫川の第1次改修

武庫川が阪神地域に及ぼす影響の重要性から、大正9年から昭和3年にわたって、逆瀬川から河口までの13.4kmについて大改修工事が行われました。

工事の概要は、川幅を広げ河床を掘り下げ堤防を新設して計画流量を流す、武庫川の支流である枝川、申川を締め切って廃川とし、これを売却して工事代金に当てるというものでした。

これは過去にない大規模な都市改造の歴史であり、鳴尾地区が住宅地域として発展する礎となったばかりか、廃川敷を買い取った阪神電鉄が花苑都市(リゾート&住宅)のコンセプトで開発を行い、それが現在の「甲子園」に繋がっていることなど、西宮の都市づくりに与えた影響には多大なものがあります。

●武庫川の第2次改修

その後、武庫川の水害の心配は薄らぎましたが、昭和58年9月の台風10号により、西宮市と宝塚市の一部が被災し、下流部では堤防の天端付近(橋桁の下)まで、水かさが上がると大出水になりました。

これを契機に、昭和62年度より、低水敷を掘下げ低水護岸を改修するという内容の、第2次改修が始まりました。

この工事に併せて、堤防の裏に盛土をして堤防を補強し、景観のために桜の植樹を進めるという桜づつみモデル事業も行われています。

5.大阪湾の変遷と高潮対策

●務古の水門

日本書紀には「務古の水門」と呼ばれる入り海があり、神功皇后が上陸したり、諸国から500隻の船が集まるなど、国際的な港だったという記述があります。津門にはかつて大塚古墳や稲荷山古墳があり、精巧な弥生時代の銅鐸も出土しており、津門首という豪族が住んでいました。

「津門」とは港の入り口の意味です。武庫川や夙川の氾濫原が平野を形成するまでは入り海になっていましたので、津門が務古の水門ではなかったのかと考えられています。

務古の水門は、古墳時代の初めのころ(およそ1600年前)の話と考えられます。港としての最盛期は数百年間だったようです。それは入り海が夙川などの土砂堆積により埋立てられたからです。

●ちぬの海

沿岸部では漁業が盛んであり、人々の暮らしも海と密接につながっていました。西宮神社の沖合は御前の浜と呼ばれる豊かな漁場であり、タイ(チヌ)、ハモ、イワシなどが豊富に採れ、特に鯛は「戎鯛」といわれ西宮名物として珍重されました。

地曳網漁によるイワシはイリジャコにされ、良質な「宮ジャコ」として重宝されたほか、干鰯として肥料に使われました。

戦前まで地曳網漁が盛んに行われており、「テテかむイワシ」の呼び声で知られる、新鮮な魚を食べることができました。

現在でも、大阪湾の海のことは「ちぬの海」と呼ばれて、釣人に親しまれています。

●新酒番船

津門の港(務古の水門)がすたれ、次に西宮の港が注目されるようになったのは、18世紀の江戸時代です。西宮の酒造業が活気づき、江戸に向けて出帆する樽回船の基地となりました。

とりわけ、新酒の江戸到着の順番を競う新酒番船の出帆時には港は人であふれ、戎神社のお祭りとならんで当時の西宮の二大行事になっていたと伝えられています。

19世紀の初頭、芦屋川・夙川から流れ着く土砂を避けるため突堤が設けられ、西宮港は風待ち港として改修されました。

その後、宮水の効用が知られるようになると、灘の酒造家は競って宮水を求めました。水を販売する水屋という商売も起こり、水船により樽詰めした宮水を輸送していました。

●海水浴場とヨットハーバー

明治40年には白砂青松で知られる香櫨園浜に、大正14年には甲子園浜に、海水浴場が開かれると、春は潮干狩り、夏は海水浴場と、阪神間の人々におおいに利用されました。

残念なことにその後、海の汚染が進み昭和40年に海水浴場は閉鎖されました。

昭和31年には国体のヨット競技が西宮港で開かれることになり、市が港湾の一部を改修してヨットハーバーをつくりました。数百隻のヨットが利用できる関西でも有数のハーバーです。

昭和37年、堀江謙一氏がマーメイド号で太平洋の単独横断に成功しました。続いてコラーサ号で出発した鹿島郁夫氏が、昭和42年に世界一周の航海を達成しました。

二人のヨットマンの偉業により、出港地となった西宮ヨットハーバーは国際的に有名な港になりました。

平成8年、西宮浜の埋立地に、日本最大級規模の「新西宮ヨットハーバー」が生まれました。

●高潮対策

大阪湾は楕円形をしており、西宮市はその最北部に位置しているため、台風や熱帯低気圧の通過時には吹き寄せと気圧低下により高潮を招いてしまいます。

紀伊水道から北上する台風に対して特にその被害が著しく、気圧が1ヘクトパスカル下がると海面は約1cm上昇します。

昭和9年の室戸台風、昭和25年のジェーン台風などでは、防潮堤が破堤し南部市街地の大半が浸水しました。このため、現在の海岸線は大阪湾の平均海水面より7m高いコンクリート製の防潮堤により守られることになりました。

高潮に対する浸水の危険性は少なくなりましたが、市民生活から海を遠ざけてしまいました。

●埋立計画と海浜保全

西宮の海岸部には、合計で約370haの埋立地があります。西宮浜、甲子園浜、鳴尾浜の三カ所です。昭和30年代に始まった西宮地先の埋立計画は、まず石油コンビナートの誘致が住民の支持を得られず挫折し、西宮市が文教住宅都市として発展する契機となったことから始まります。

その後、昭和40年代の高度成長期に埋立計画が再燃しました。しかし陸続きの大規模な開発計画に「甲子園浜を守ろう」という住民運動が起こりました。

市対案の発表、行政訴訟、鳥獣保護区の指定などの経過を踏まえ、最終的には計画の縮小、海浜の保全などで和解しました。

甲子園浜・香櫨園浜の自然海浜は、大阪湾に残る貴重なものです。磯辺は渡り鳥の飛来地として保護され、自然観察の場、市民の憩いの場として親しまれています。

6.地形区分と土地利用

●地形の形成

現在見られる山地や盆地、平野などのおおよその地形は、約2百万年前以降の地殻変動によってつくりあげられたものです。後半の百万年間には10万年ぐらいを周期として、氷期(氷河期)と間氷期が少なくとも4回繰り返されたことが分かっています。

約2万2千年前の最終氷期(ヴュルム氷期)は、現在より年平均気温が10度低く、海水面はおよそ140m低下しました。大陸を取り囲んでいる水深100m以上の大陸棚のほとんどが陸地になりました。日本列島はすべてつながり、大陸とも陸続きになりました。

1万年前になると最終氷期が終わり、温暖な気候になりました。約5〜6千年前の縄文前期には最も気温が高くなり、海面は現在よりも約5mほど高い水準に達しました。この急激な海面上昇に伴う海岸線の進入を「縄文海進」といいます。

2千年前頃の弥生時代には、海水面は次第に下がり、海であったところに低湿地帯が広がり平野ができました。縄文人は台地や山地の麓で生活していましたが、弥生人は平野部へ進出し稲作を行い定住生活を始めました。

●地形の概要

西宮の地質は、基盤岩類の上に、粘土・砂・礫などでできた表層がおおっている構造です。南部地域は1億年前頃に形成された花崗岩の上を、約150万年前以降にできた大阪層群(洪積層)が覆っています。北部地域は1億年前頃にできた流紋岩(有馬層群)の上を、約1500万年前以降にできた神戸層群(古神戸湖の堆積物)が覆っています。

西宮の地形は、断層ごとに地形区が分かれており、階段状に変化するのが大きな特徴です。南から「武庫平野」「上ケ原台地」「六甲山地」「塩瀬山地」「三田盆地」の大きく5区分とすることができます。

西宮の水系は、武庫川を除いて東六甲山から有馬川、船坂川、太多田川、仁川、東川、夙川がそれぞれ放射状に伸びています。南部地域は北の仁川、東の武庫川、南の大阪湾、西の夙川と、市街地の回りを大きな水辺が取り囲んでいます。北部地域は、山口町の有馬川、塩瀬町の名塩川と、市街地の中央を川が流れています。

●武庫平野

武庫川の三角洲

南部市街地の大半を占める平野部は、主に、武庫川の氾濫により上流部の土砂が運ばれて堆積し形成された大三角洲と、夙川・東川により造られた小三角洲から成る、海抜5m以下の沖積平野です。

沖積平野の地盤は、地表面から緩い砂層、軟弱な粘土層、少し締まった砂層と続き、ここまでが沖積世(約1万年前から最近まで)に堆積した沖積層です。

この下に洪積世のよく締まった砂礫層、少し堅い粘土層、砂層と粘土層の互層が現れます。洪積層の最上部の砂礫層は構造物の支持層として知られています。洪積層は、上ケ原台地を形成している層と同じ大阪層群です。

新田開発と宅地化

17世紀中頃、新堀川を開削して武庫川の湧き水を集め、農業用水として再分配したため、武庫川沿いの段上村、上大市村、下大市村、上瓦林村、下瓦林村で新田開発が進みました。

18〜19世紀にかけて、土砂堆積の進んだ武庫川デルタ地帯(現在の鳴尾地区)で、新田開発が進みました。現在、鳴尾地区はほとんど宅地化されており、段上地区・瓦木地区では農地を残しつつも、区画整理事業が行われており市街化が進んでいます。

伏流水と宮水

地下水は武庫川や夙川でできた沖積平野の下を流れています。この沖積層は海岸部で20〜40mの厚さがあり、一般的に砂礫が多く、透水性が良く、良好な帯水層を形成しています。

南部市街地の地下水は、川の上流の砂礫層から地下の砂礫層の中を流れるもので、伏流水と呼ばれているものです。さきの大震災では、南部市街地の全域で水道水が断水し、復旧に1カ月以上かかりました。この時、市内に多く散在する井戸がおおいに役に立ちました。

宮水は、夙川、六湛寺川、東川の伏流水が、宮水地帯で古い昔の海の層を通過するときに塩分を吸収しブレンドされて硬水になったものと考えられています

地盤沈下

戦前から臨海地域には重化学工業が立地し、西宮市は阪神工業地帯の一翼を担っていました。過剰な地下水の汲み上げを行ったため、沖積平野の地盤沈下が進行し、一部にはゼロメートル地帯(−0.2m)が出現しました。高潮や洪水による浸水の危険性も高まり、南部市街地は幾度も浸水を経験しました。

その後、工業用水道の敷設により昭和44年より地下水汲み上げの規制を始め、海のトリデとなる防潮堤の構築、下水道整備と排水ポンプ場の整備なども進められ、地盤沈下は昭和50年代初めには終息しました。

天井川

都市化の過程で河川の流路が堤防などで固定されると、川の堆積作用により河床が高くなり、周囲の平野部より高くなると天井川ができます。天井川が洪水時に破堤すると広い範囲に水害が及ぶことになります。

六甲山から大阪湾まで急勾配で流れ込む、阪神間の河川にはその傾向が著しく、芦屋川・夙川・仁川・逆瀬川などはその代表的なものです。

浸水地域

西宮市の浸水地域には大きく2つのパターンがあります。1つは武庫川・東川・夙川などの河川の氾濫によるもので、浸水地域は河川沿いに内陸に及んでいます。もう1つは高潮による海岸地域の浸水で、その範囲は概ね阪神電鉄以南に限られています。

阪神大水害、昭和36年6月豪雨、昭和43年23号台風は、前者のパターンであり、ジェーン台風、室戸台風は後者のパターンといえます。

平成元年9月14日、観測史上最大の時間雨量112mmの豪雨があり、市内の大半の地域が浸水しました。

交通の要衝

武庫平野は西にいくにしたがい狭くなります。このため古くから、西宮は交通の要衝の地、軍事上の重要拠点として注目されてきました。

戦国時代に越水城が築かれていたこと、西国街道と山陽街道の交会点として発達した宿場町が西宮の前身であったこと、名神高速道路のインターチェンジが設けられたことなどです。

●上ケ原台地

仁川の扇状地

甲東園から上ケ原を経て夙川に至る辺りは、武庫平野より一段と高くなっています。海抜は10〜50mあり、上ケ原台地と呼ばれています。

地盤変化がない時、川水は蛇行し砂礫を運んで広い河原を造りますが、地盤の上昇が起こると、もとの河原は段丘として、河原の砂礫は段丘礫層として残ります。

武庫平野が形成されるまで、大阪湾はかなり内陸部まで入り込んでいました。かつての仁川は六甲山地から流れ出てすぐに大阪湾に注いでいたため、河口部(上ケ原あたり)で土砂が堆積し大きな扇状地を造りました。

上ケ原台地は、大阪層群の上に段丘礫層が薄く被覆しており、仁川の造った古い扇状地が上昇してできた段丘と考えられています。

「六甲の黒部」と呼ばれる仁川渓谷は、上ケ原台地の隆起(六甲山地の上昇)と共に仁川の浸食が起こったため、珍しいV字谷になっています。また、平野部との間はほとんど急崖になっています。

文教地区

武庫平野に近い上ケ原台地の周縁部に、弥生式土器などが多く出土しています。私たちの祖先が西宮の地に住み着いたのは弥生時代と推定されています。

江戸時代には大池や新池が新しく造成され、仁川から農業用水が引けるようになり新田が開発されました。

現在、上ケ原台地には、美しいキャンパスを持つ関西学院や神戸女学院などが集まり、日本で2番目の文教地区に指定されています。周辺の落ち着いた住宅地とあいまって阪神間を代表する文教地区となっています。

●六甲山地

六甲山地は三つの山塊「北山山塊」「樫ケ峰山塊」「六甲山塊」からなり、断層を境に200m以上の高度差をもちます。

北山山塊

甲陽断層と芦屋衝上断層に挟まれた地域を「北山山塊」といいます。鷲林寺から苦楽園、甲陽園辺りを含む北山・甲山を中心とした丘陵地です。

基盤岩である花崗岩が一部露出しており、大阪層群の砂礫層や粘土層が薄く覆っています。甲山は古い火山の火道が残った安山岩の残丘であり、鷲林寺・西宮ゴルフ場付近は高位段丘にあたります。

甲陽断層付近では急激な地盤の上昇が見られ、高度は概ね100〜200mあります。緑が多く、眺望にも恵まれていることから、六甲山麓の良好な住宅地域として早くから注目されてきた地区です。

大正時代には、苦楽園はラジウム温泉、料理屋、ホテルなどで、甲陽園は撮影所、旅館、遊園地などで名をはせたこともあり、風光明媚な地区イメージを高めました。

樫ケ峰山塊

芦屋衝上断層と五助橋断層とに囲まれた地域を「樫ケ峰山塊」といい、六甲山の山腹部にあたります。観音山(522m)、雷岳(565m)、樫ケ峰(461m)など標高500m前後の山がそろっているのが特徴です。傾斜もきつく、20度〜40度以上のかなりの急斜面になっています。花崗岩が全面的に露出して、風化も激しく、砂防事業が営々と進められているところです。

六甲山塊

五助橋断層と六甲衝上断層に挟まれた地区を「六甲山塊」といいます。西宮の最高点(898m)を含む六甲山の本体です。

その大部分は花崗岩より構成されており、風化に際して数cm立方の角礫状に割れるのが特徴になっています。

南側は断層崖で急峻であり、頂上部は比較的平坦ですが、北側は蓬莱峡や白水峡のような崩壊地形になっています。六甲山の北側の船坂辺りは段丘礫層でところどころ覆われており、農地として利用されています。

六甲最高峰は932mあり神戸市に属しています。

塩瀬山地

塩瀬山地は、大阪盆地と三田盆地を隔てており、畑山(528m)、国見山(407m)、秀ケ辻山(403m)などの山地から成ります。

塩瀬山地は、六甲山とは異なり、流紋岩質の有馬層群からなり、その上を神戸層群が薄く被覆しています。

武庫川は、塩瀬山地が隆起する以前から流れており、山の隆起量よりも川の浸食量のほうが大きいため、谷の深さが250mもある美しい峡谷を造り出しています。

名塩は名塩川ぞい(国道176号沿い)に開けた谷あいの集落地です。近年、山の緩斜面を利用した住宅地開発が進みました。住宅都市整備公団の開発するナシオン(東山台、国見台)、バードタウン(名塩南台)、名塩さくら台、名塩平成台などの大規模開発です。昭和61年にはJR西宮名塩駅が誕生しました。

●三田盆地

山口町は、三田盆地の南東部に位置しており、すべて神戸層群の分布地に相当します。標高150〜190mの平坦地が有馬川一帯に開けており、周辺には丘陵性の山地がみられます。

有馬川ぞいの農地を残した集落地の周囲を、北六甲台・すみれ台などの住宅団地、阪神流通センター、丸山区画整理事業地などの大規模開発地があります。

7.都市の発展と災害

●都市の発展

明治以降、鉄道電車が開通し大阪との時間距離が短くなると、阪神地方は急速に近代都市として成長するようになりました。

戦後は、大阪・神戸の郊外住宅都市として発展しました。人口の伸びが著しく、産業都市から住宅都市への道を歩むようになりました。

戦前の行楽地・別荘地として開けた六甲山麓では戸建住宅の開発が進み、海辺の工場跡地は集合住宅として再開発され、市街地内に点在する農地は宅地や駐車場として利用されるなど、住宅地開発が進みました。

西宮は山と海と川が交錯した複雑な地形の都市です。豊かな自然環境や深みのある都市景観の基盤をつくっていますが、起伏に富んだ地形は災害に対して脆い都市であることも警告しています。

もともと崩れやすい六甲山地の緑の回復が追いついていなかったこと、流域の開発が進み洪水を受け入れる河川の負担が大きくなっていたこと、地下水汲み上げによる地盤沈下を許していたことなどが、過去に幾度も風水害による大きな被害をもたらしました。

私たちは災害が起きるたびに都市づくりの欠陥を見直し、長い時間をかけて対策を講じてきました。

砂防事業を行い緑を植え、治水事業を行い河床を掘り下げ、高潮対策事業を行い防潮堤を築いてきました。浸水地区に対しては、工業用水道を引いて地下水の汲み上げを規制し、下水道事業を進めて速やかに雨水を排除できるようにしてきました。

●阪神大震災

平成7年1月17日、これまで地震がない地域と思われていた西宮に震度7の大地震が起こり、概数で、死者1千人、避難者最大4万5千人、倒壊家屋(全壊及び半壊)6万世帯という大被害をもたらしました。ライフラインや鉄道・道路などの応急復旧が完了する数ケ月にわたり、都市は孤立しました。

西宮市制70周年の記念すべき年に発生した、阪神大震災は、私たちにいったい何を教えようとしたのでしょうか。

●自然と市民は都市の財産

地震は、都市化・近代化という名のもとに、コンクリートの建物やアスファルトの道路に隠されていた大地の姿を明らかにし、人間が自然の中の小さな存在であることを知らしめました。

また、自発的な近隣での助け合いやボランティアの働きを促し、人間的な行動が評価される新しい市民社会像を示唆しました。

21世紀の都市づくりは「安全」が大前提になります。まず最初に地形を基本とした都市の自然的条件が守られている、次にコミュニティ社会が機能している、そして都市づくり・まちづくりが始まる、そんな地域社会を思い浮かべます。

地震の教訓は、水とみどりの自然こそ、生き生きとした市民社会こそ、都市の財産である、都市の基盤である、ということだったのではないでしょうか。

●自然の見える都市づくり

人為的な土地の改変が、大きな問題を含んでいることも分かりました。

効率的に土地を使うために、自然の力で形成されてきた地形を、人の力で平地に造成し利用してきました。地形の変化に乏しい画一的な都市空間が生まれ、もともとの災害地形が分かりにくくなっています。

大震災では、古い木造家屋以外に、断層周辺地や盛土地や埋立地などに建てられた建築物が多数倒壊するなど、新しい都市災害が生まれました。

地形の見える都市空間の復活、地形をいじらず地形に建物を合わせるような建築プラン、動植物を再生できる土木建設技術、過去の履歴を伝える地名の伝承など、本来の自然の姿が見える、自然に順応した都市づくりが、一層重要になってくるでしょう。

●人の心を結ぶまちづくり

震災の直後は、ご近所総出で近隣の安否を尋ねたり、全壊した建物の中に残る人を救助したりと、日ごろからの付き合いや助け合いが、非常時の大きな支えになることを教えてくれました。

不自由な生活を強いられている被災者の姿が報道されると、全国から義援金や救援物資が多数寄せられ、3月末までに百数十万人ものボランティアが被災地に集まりました。

未曾有の大災害は、全国の人々に絆の大切さや博愛の心を呼び覚まし、人間味あふれるネットワーク社会の到来を予感させました。

行政・事業者・市民の出会いの場、交流の場・活動の場をつくり、自主的な市民の発意による、多様なまちのコミュニティを育てていくことが大切になるでしょう。

8.西の宮は西の都

●個性豊かな都市

阪神大都市圏に位置する西宮市は、一般に、成熟した住宅都市として知られていますが、多面的に光彩を放つ個性に恵まれています。

現在、西宮の都市的性格は大きく次の6項目の視点で整理できます。それは、■住宅都市、■学園都市、■流通都市、■緑の都市、■リゾート都市、そして■水の都市、としての個性です。

●住宅都市

西宮市の都市づくりの基本が住宅都市であることに、異論をはさむ人はいないでしょう。現在の人口は大阪・神戸の郊外住宅都市として順調に発展し約45万人を数えます。土地利用面で見ても市街地の8割が住居系、その7割が住居専用地域に指定されています。

瀬戸内海の温暖な気候に恵まれ、降雨が少なく湿度も高過ぎず、夏も過ごしやすい。大阪湾の影響で気温も極端に低くなることはなく、六甲山がそびえているために冬の北風もやわらぎます。

明治・大正時代になって大阪・神戸間の鉄道網が整備されると、風光明媚な阪神地域に注目した鉄道経営者が、健康的な郊外住宅地として売り出したことが、住宅都市としての発展の端緒になりました。

昭和38年に西宮市は「風光の維持と住環境の保全、文教の振興を図る」という内容の文教住宅都市宣言を行いました。

阪神工業地帯の産業都市から脱却し、自然環境と住環境を大切にした文教都市づくりへと、都市政策の方向を大きく転換したことになります。

今日では、生活利便施設も多く、住みたい都市調査ベストテンでは必ず上位にランクインする、全国に名高い住み良い都市です。

●学園都市

西宮には10の大学があります。関西学院大学、神戸女学院大学、聖和大学(大学、短大)、武庫川女子大学(大学・短大)、甲子園短期大学、兵庫医科大学、夙川学院短期大学、大手前女子大学です。

西宮市民の11人に1人の割合、約3万6千人の大学生が通う都市です。

文教住宅都市宣言に則り教育活動を重視した活動を進めています。ランドセル廃止の小学校教育や、中学校区毎に配置された社会教育の場・公民館などは、全国的に有名な教育施策です。

江戸時代の名塩蘭学塾や今津大観楼、明治時代の六角堂、篤志家による甲陽学院や報徳学院の開学など、人づくりに強い関心を持つ独特の文教風土があります。

大谷記念美術館、白鹿記念酒造博物館、辰馬考古史料館、菊池貝類研究所、黒川古文化研究所、穎川美術館、堀江オルゴール館と民間の文化施設も多く、抜群の文化教育環境を誇っています。

●流通都市

鳴尾浜の埋立地、西宮浜の埋立地、そして山口町の流通業務団地と、大きく3つの流通基地があります。

西宮は、大阪平野(武庫平野)が夙川辺りでくびれて神戸方面につながる地形のため、古くから交通の要衝の地として発展してきました。

鎌倉時代末には、西国街道が中国街道に交わる辺りに戎神社があり、門前町として栄えました。江戸時代には、有馬街道の生瀬とともに、西宮は宿場町としても栄えました。

現在の阪神間は大阪・神戸の中間地域として扱われていますが、かつては京都・大阪・神戸の三都の文化が出会う町でした。

国道は2号・43号・171号・176号の4線、高速道路は大阪湾岸線・阪神高速道路・中央自動車道(名神高速道路)・中国自動車道の4線が走っています。

幹線道路網が発達しているのが特徴ですが、交通公害が西宮の都市課題にもなっています。

JR線、阪神電鉄、阪急電鉄の3鉄軌道があり、全部で24駅、大阪・神戸に20分以内で到着します。市街化区域5千haを単純に駅の数で割るとして、10分歩けばどこかの駅に着くことになります。

伊丹空港に近く、鳴尾浜からは淡路島行きのフェリーボートも就航しています。市内には阪神バス・阪急バスも運行しており、いたって交通の便利な都市です。

●緑の都市

市域面積1万haの1/2に相当する5千haが緑の地域であり、近郊緑地保全区域や市街化調整区域の指定を受け、保全されています。

国立公園六甲山の緑を背景に、1千万年以上の歴史を持つ西宮のシンボル甲山が、都市のランドマークになっています。

甲山森林公園、北山公園、夙川公園、武庫川緑地など、自然と触れ合える個性的な公園が多く配置されています。

中でも、松や桜で有名な夙川は、国内で最も美しい都市河川と高く評価されています。

昭和48年に「自然環境を守る条例(現・西宮市環境保全条例)」を施行し、甲山湿原の保護、景観樹林保護地区の指定など、緑を守る施策を進めています。

近隣都市と比較して街路樹も多く育てられており、西宮の緑を豊かに演出しています。

現在、公園ごとにテーマとなる花を決めて整備する花の名所づくりが進んでいます。

●リゾート都市

明治時代の後期から大正時代、昭和時代の初期にかけて民間のリゾート開発が多数行われ、その性格を今も残しています。

この頃の阪神文化を「阪神間モダニズム」として再評価する動きがあります。これはリゾート都市に育まれたライフスタイルを、阪神間独特の個性として打ち出してはどうかというものです。

西宮は「園」と名の付く地名が目立ちます。果樹園の甲東「園」、温泉街の苦楽「園」、行楽地の甲陽「園」、遊園地の香櫨「園」などです。

これらリゾート開発の寿命は長くありませんでしたが、自然の風致や景観のよい西宮の都市イメージを、おおいに高めました。

そして甲子「園」があります。開設当時は、甲子園ホテル(現・武庫川学院第3学舎)、阪神パーク、水族館、運動場、テニスコート、プールなどのレクリエーション施設と、健康住宅地との一大複合開発でした。

大正13年に作られた甲子園球場は、阪神タイガースのホームグラウンドとして、春夏の全国的なビッグイベント・高校野球大会の行われる野球場として知られています。

西宮が大都市圏にある住宅都市なのに、ベッドタウンと呼ばれる他都市と雰囲気が大きく違うように感じるのは、リゾートの名残りがよい隠し味になっているからといえます。

●水の都市

総延長20kmの海岸線があり、渡り鳥の飛来地である甲子園浜、香櫨園浜や、酒造業を振興した西宮港・今津港などの歴史的港湾があります。

西宮浜・甲子園浜・鳴尾浜の3つの埋め立て地があり、産業用地・都市機能用地、レクリエーション用地として利用されています。

夙川・東川・津門川・新川・武庫川などの二級河川が南流しており、河川敷緑地として親しまれています。

そして江戸時代につくられた農業用水路が、大正11年に国から無代下付され、全国的にもまれな市所有の水路が多数残っています。

河川水路網の規模は市道延長943kmに対し234kmあり、道路の1/4という数字になります。

六甲山地には滝も多く、農業用貯水池や調整池として整備された大池・新池、水道貯水池としてつくられた金仙寺湖・北山池があります。

天与の霊水といわれる宮水があり、環境庁の名水百選に選ばれています。灘の酒が宮水を得て天下の銘酒になったことはあまりにも有名です。

西宮には、日本酒以外にビールやウィスキーなどの事業所もあるため、神戸の港都、尼崎の工都に対比して、西宮を「酒都」と呼ぶ人もいます。

西宮は、大都市圏に位置しているのに奇跡的とも思えるほど、豊かな水資源に恵まれた都市です。泉があり、川があり、滝があり、池があり、湖があり、海があり、港があり、浜があり、そして宮水と酒があります。こんな都市は日本全国でも珍しいと言えます。

●西の宮は西の都

6つの視点で見た場合それぞれが全国的に傑出した都市特性です。「西の宮」は「文教住宅都市」という一言で表現されるような単色の都市ではなく、「西の都」と呼ぶにふさわしい、趣のある複合機能都市といえます。

ここで、夙川の桜の話を紹介したいと思います。西宮市には、終戦後の予算のない時代に、市財政の1/4ものお金を使って、夙川堤に桜を植えたという都市づくりの歴史があります。全国的にみても有数の松林に、四季折々の表情豊かな桜を配したことにより、日本一美しい夙川が育ちました。

西宮の都市づくりの歴史には、進取の気風がみなぎっています。

阪神大震災の後始末も含め、21世紀初頭には都市の基盤整備におおむね目途をつけることができそうです。今後は住環境保全と安全都市づくりを基調に、自然環境の保全再生やコミュニティ育成など、魅力的な都市づくりに都市政策の重点が移ってくるでしょう。

大震災を乗り越えて、さらに素晴らしい「西の都」に生まれ変わったと、世界中から評価されるような都市に発展させることができればと思っています。

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