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【環境学習参考情報】 歴史・文化

塩瀬

番号地図のポイント番号です

概要

斜行エレベーター

塩瀬(しおせ)は、古い時代から有馬へ通う宿場町として開けた生瀬(なまぜ)と、江戸時代になって製紙業と蘭学塾で有名になった名塩(なじお)とが合併した町です。また、武庫川渓谷の大自然に近接する古い歴史と新しい息吹を併せ持った町でもあります。

生瀬町は生瀬大橋手前の宝生ケ丘(ほうしょうがおか)から、JR生瀬駅を過ぎ太多田川(おおただがわ)添いに左折し、バス停「知るべ岩」までのかなり細長い町です。この町は琴鳴山(ことなきやま)に代表される山地がほとんどです。この地は京都、大坂(阪)から有馬温泉へ行く唯一の要路で、古くから宿駅として栄えました。

一方、名塩は、176号線添いの「木ノ元(きのもと)」バス停付近から三田方面へ向かい赤坂峠辺りまでです。古い人家は教行寺(きょうぎょうじ)や蘭学通りのある旧市街地と木元(このもと)地蔵のある木元付近に集まっています。名塩も周囲がほとんど山地で田地を広げるところが少なく、農耕では生活を立てにくいところです。

国道176号線沿いに徐々に進んでいた名塩地区の都市化、住宅地化は、JR福知山(宝塚)線の西宮名塩駅が昭和61年に開業したのを機に急速に進み、昭和62(1987)年には、名塩南台1〜4丁目、平成元(1989)年に清瀬台(きよせだい)と名塩山荘、名塩ガーデン、名塩新町(しんまち)及び斜行エレベーターのある東山台1〜5丁目、名塩茶園(ちゃえん)町、平成8年には国見(くにみ)台、名塩平成台、名塩さくら台といった新しい町が続々誕生しました。

また、塩瀬には由緒ある浄橋(じょうきょう)寺、名塩御坊(ごぼう)の教行寺、木元寺(このもとでら)、八幡神社、あるいは人々に語りつがれた民話に残る武庫川の名所および武田尾(たけだお)温泉等、豊かな自然と人々の生活の名残が多く伝えられています。

交通の変遷

大坂街道

生瀬(なまぜ)から名塩(なじお)への道筋は、地図にある大坂街道と呼ばれているものですが、これも江戸時代になってからと思われます。生瀬の町筋を過ぎると太多田(おおただ)川の川岸に出ますが、明治時代までは現在の県道宝塚・有馬線は作られておらず、河原そのものが街道となっており、「四十八ヶ瀬」あるいは「四十八飛び」とよぶ難所があり、往来に苦しんでいました。

一方、名塩方面に向かう場合、太多田川の前方に猿首岩(さるこうべいわ)がそそり立っており、行く先を遮っています。この猿首岩とは、現在国道176号線と県道宝塚・有馬線の分岐点、すなわち太多田川が武庫川に合流している場所の背後の岩山であり、その突き出ている岩の形が猿の顔に似ているところからその名があります。名塩に向かう場合、この猿首の岩山が妨げになっていましたから、その下の武庫川の崖渕や川の瀬を通行する二瀬川道(ふたせがわみち)及び猿首岩の背後、琴鳴山(ことなきやま)の山腹に登り、そこから木元(このもと)に入る猿首道が作られました。しかし、いずれも非常な難路であり、したがって大坂街道を往来する旅人や牛馬は、武庫川左岸を通る青野道(あおのみち)を通行していました。生瀬村では、これら人馬に村の宿場を経由させるために、宝永(ほうえい)2(1705) 年以後、村をあげて二瀬川道上の崖を切り開き、平坦な道を作りました。現在この道は国道176号線になっています。なお、平成13(2001)年には生瀬橋のバイパスも開通し、ここ10年来の大渋滞も解消されているようです。

生瀬村と名塩村の合併

生瀬村と名塩村は互いに接近した村でありながら、前者は1200年代にはすでに宿駅として栄え、後者は1400年代に蓮如(れんにょ)により教行(きょうぎょう)寺は開かれたものの人家は24戸と少なく1600年代になってようやく製紙業で豊かになったという、全く異なった発展を遂げています。このふたつの村が合併に到るまでの道筋はかなり複雑です。

明治4(1871)年7月、廃藩置県とともに、生瀬村、名塩村は、それまで所属していた尼崎藩から尼崎県に所属することになり、現甲東、瓦木、芦原地域の村と共に管内16区に編入されました。

11月に尼崎県は三田県とともに廃止されて兵庫県に統合され、これに伴って区政が改められ、名塩・生瀬村は、山口地区の村々(5か村)、湯山町(神戸市北区)、塩田村(神戸市北区道場)等と共に有馬郡19区に編入されました。

明治22(1889)年、全国的に町村の大幅な合併整理が行われ、名塩村と生瀬村は合併して「塩瀬村」として発足しました。合併後は両村のそれまでの利害関係が表面化し、対立や不和が度々起こりましたが、昭和26(1951)年4月、解村して西宮市に合併し、広域行政となりました。

その後、新しい住民が増えることによって不和などは解消していきました。

生瀬宿場跡

生瀬宿場跡

生瀬は地理的に見て、摂津平野から有馬温泉へ、また遠く播州路、丹波路に通ずる追分(おいわけ)(分かれ道)で交通の要地であったので、江戸期早くから宿場1が置かれていました。

幕政時代には参勤交代のための宿駅としても栄えました。それに伴い、幕府御用達や一般諸荷物の中継場所として運搬業務によって栄えた土地でもあります。

現在でも、庇(ひさし)が低く奥行きの深い白壁の家並みが見られますが、これらは、妻入(つまいり)建築または宿造りと呼ばれており、江戸時代旅籠(はたご)や茶店であったようです。今なお宿場の面影を留めている貴重な存在です。俳人許六(きょろく)も、有馬入湯の折り、ここに休んで「早稲狩りになませの宿や民の家」という句を残しています。

浄橋寺

武庫川にかかる生瀬大橋からほど近い高台に建つ浄橋寺(じょうきょうじ)2は、浄土宗西山派に属し、法然上人の高弟で西山派の祖とされる善慧坊証空上人(ぜんねぼうしょうくうしょうにん)が、鎌倉時代の嘉禎(かてい)4(1238)年に創建したとされる由緒ある寺院です。

創建伝承によれば、証空上人が京から有馬温泉へ向かう途中、琴鳴山麓(ことなきさんろく)で平家の落ち武者と思われる賊に出会いました。上人は野武士達をよく諭(さと)して改心させ、急流のためきちんとした橋の無かった武庫川に橋を架け、それを利用する旅人から通行料をとって生計を立てることを薦めました。野武士達は教えられたとおり大きな橋を作り、その橋守りとなり、以後、幸せに暮らしたとのことです。上人はこの橋を浄橋(じょうきょう)と名づけられたと言われています。その後仁治(にんじ)4(1241)年に月光院、真仙庵(しんせんあん)、中阿庵(ちゅうああん)という民家数軒と共に本堂が創建されました。

木元寺と木元地蔵

聖徳太子は鎮護国家のため、一木で3体の地蔵尊を刻み3か所に納められましたが、その1体が名塩の木元寺(このもとでら)3にある木元地蔵尊であると伝えられています(もとは木の下と書かれましたが明治時代に木元と改められました)。なお、他の2体は紀伊の木ノ本(きのもと)、近江の木之本(きのもと)地蔵尊です。のち、室町時代の摂津、播磨、備前美作(みまさか)を支配する守護大名であった赤松則村円心公(のりむらえんしんこう)が勝軍地蔵として伽藍(がらん)をここに創建しました。その曾孫の赤松播磨守(はりまのかみ)満政は、六代将軍足利義教(よしのり)に近習(きんじゅ)として仕え、その信任厚く歌道にも秀れた文武両道の人でしたが、新たに台頭してきた山名持豊(もちとよ)(後の応任の乱の山名宗全)に領地をねらわれて、戦いに敗れてこの生瀬の地に逃れ、木元の山中で一族郎党124人と共に、悲憤の自殺をとげたのです。文安(ぶんあん)2(1445)年3月のことです。

境内に残る十三重の塔は満政父子の墓です。また、一石五輪(いっせきごりん)の小塔は一族郎党の墓で、現在は3基のみ残っています。この両塔は室町時代の墓石形式をそなえていると言われています。この後、天正(てんしょう)年間(1573〜91)、同寺は火災にあいましたが、その際、火の中から一部を焼いた地蔵尊が運び出されました。それが現在の木元地蔵尊で、焼(やけ)地蔵とも称されています。また、次のような伝説もあります。

昔この地に住んでいた川辺音次(かわべおとじ)という若い百姓夫婦が家に赤ん坊を残して裏山へ薪を取りに行きました。ふとわが家の方を見ると煙が立ちのぼっています。夫婦は山を駆け下り家に飛び込みました。すると日ごろ信心しているこのお地蔵さんが、激しい火の中、衣の袖で赤ん坊にふりかかる炎を懸命に払っておられました。おかげで赤ん坊はやけどひとつせずに助けられましたが、お地蔵様はやけどを負われました。

それが今も地蔵尊の頬(ほお)と左の衣に残っている傷跡だと言われています。こうしたことから火伏(ひぶせ)地蔵とも呼ばれて信仰されています。

琴鳴山と赤子谷

木元寺(このもとでら)に向かって左側の山を琴鳴山(ことなきやま)4、その谷を赤子谷(あかごだ)にといいます。

平安の昔、京都に左大臣萬里小路盛通公(まりこうじもりみちこう)に、通磨(みちまろ)という若者がいました。ある時から美しい歌女、浅茅(あさじ)と、恋を語るようになりました。ところがこのふたりの身分が違うためその仲は許されず、そこでふたりは有馬の湯に安住の地を求めることにしました。楽しい日々を送るうち可愛いい子どもまで生まれました。しかし間もなく通磨は病に倒れ亡くなってしまいました。悲しみにくれていた浅茅は気をとり直し、京都へ帰って幼な児を立派に育てようと決心しました。秋の中ごろ有馬をたって京に向かいましたが、蓬莱峡(ほうらいきょう)のはずれのあたりまで来た時、背中の赤子が急に泣き出し息を引き取ってしまったのです。すべての希望をなくした浅茅は、山の頂に登って都の方をながめ、両親に先立つ罪をわび、夫や赤子、自分のために生者必滅(しょうじゃひつめつ)の曲をかなでた後、死んでいったのでした。それからは、このあたりを通る旅人の耳に、この山から悲しげな琴の音と、母を慕って泣く赤子の声が聞こえるようになりました。

このことから、この山を琴鳴山、前の谷を赤子谷と呼ぶようになったと言われています。

八幡神社

八幡神社 左義長

八幡神社5の創建については不明ですが、御神体(ごしんたい)は、山城(やましろ)の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)より迎えたとされ、祭神は、応神(おうじん)天皇、大山咋命(オオヤマクイノミコト)、水婆女命(ミズハメノミコト)です。

神社の運営は神主を置くのではなく、60歳以上の男子の氏子から選ばれた3人の宮守(みやもり)によって執行されてきました。しかし、明治40(1907)年の法令施行に伴い、以後、神事は有馬稲荷神社神官の児玉氏によって行われています。

正月15日の左義長(さぎちょう)及び、10月20日の秋祭りの山車(だし)引き回しなどの行事は今も行われています。なお、古老たちはこの社が北面して教行寺(きょうぎょうじ)と相対しているのは同寺の守護神として祀(まつ)られているからなどと伝えられています。

この鎮守(ちんじゅ)の森は、信仰の対象として村人達に守られ雑木林(ぞうきばやし)の多い原始の森に近い原形を残しています。ところが残念な事に中国道が作られる折、山中から山裾(すそ)のこの森に至る斜面の中間を深く削り取ってしまいました。その結果、山頂からの水路が遮断され、取り残された森の将来が不安視されています。

名塩の蘭学塾

八重夫人胸像

幕末より明治初年にかけ、名塩において大きく異彩を放っていたのは、名塩蘭学塾6です。1862年から1869年にかけて開かれていた、おそらく兵庫県下で初めての、この洋学塾を指導していたのが、当時有名な蘭学者、緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾出身の英才、伊藤慎蔵(しんぞう)でした。この適塾といえば、安政の大獄(あんせいのたいごく)で死罪に処された幕末の志士、橋本左内(さない)をはじめ、軍政家で上野彰義隊(うえのしょうぎたい)討伐指揮者であった大村益次郎(ますじろう)、明治新思想提唱者で慶応義塾の創立者の福沢諭吉、日本赤十字創立者の佐野常民(つねたみ)、幕府歩兵奉行で外交官であった大鳥(おおとり)圭介、医政家で医事行政確立者の長与専斎(ながよせんさい)など、多くの明治の先覚者達を送り出しています。

伊藤慎蔵がなぜ、学問とは縁がなさそうな紙漉(す)きの里に蘭学塾を開いたのでしょうか。それは緒方洪庵の夫人、八重(やえ)が名塩の出身であったからです。慎蔵は八重夫人の世話で名塩出身の娘と結婚しますが、その妻の病気静養のため、空気の良い名塩に移り住むことになります。そして、この地で、八重の父億川百記や、適塾出身の大漉き元の弓場為政(ゆばためまさ)が大きな力を貸して開塾の運びとなったのです。

この進歩的な洋学塾には、伊藤慎蔵の学識を慕って遠方から、また三田、丹波、播磨あたりからも、医者の息子達が学んでおり、多くの人材を輩出しています。

このように名塩に蘭学をもたらした八重夫人ですが、緒方洪庵との出会いは、八重の父億川百記と洪庵が大坂の有名な蘭方医、中天遊(なかてんゆう)の門下生であり、百記が洪庵の兄弟子であったからです。若き日の貧乏書生であった緒方洪庵の将来を期待して娘の八重をその嫁にと考えていた百記でしたが、洪庵は微禄といえども備中足守(あしもり)藩の出身、士農工商の身分の差が甚だしかった当時としては結婚は難しく、そこで中天遊に願い出て、ようやく、洪庵29才、八重17才の時に結婚にこぎつけたのです。

現在、西宮農協名塩支店の玄関脇には、名塩蘭学の記念碑と八重夫人の胸像が建てられています。

教行寺

教行寺

文明7(1475)年、本願寺第8代宗主蓮如上人(れんにょしょうにん)がこの地に暫(しばらく)留まられた折りに村内の中山(現在の卵塔場(らんとうじょう))に草堂(そうどう)が道場として建てられましたが、これが教行寺(きょうぎょうじ)7の創建とされています。その後、冨田(とんだ)(高槻市冨田町)に、冨田教行寺を開いた蓮如のもとへ名塩の村民が訪れ、中山の草堂を仏閣となし住持(じゅうじ)をすえ常に法要を聴受したいと願い出ました。

蓮如は、第19子の連芸(れんげい)に教誨(きょうかい)を命じます。しかし名塩は山峡の村で、生活物資にも乏しく、寺を設けても維持永住が出来ないであろうと案じた連芸に、村民は「全村あげて檀家となり、春、秋2回に、米及び麦を3升ずつ、さらに初穂米を1升寄進します」と、当時の食生活からしては破格の条件を提示したところ、蓮如はこれを承諾し、連芸が名塩に赴任しました。連芸は村民の生活安定を計るため、法話をしながら農地開発を説き、人々は村を挙げて開発や開墾に従事したとのことです。やがて中山道場は名塩御坊(ごぼう)と呼ばれ寺名も名塩教行寺となりました。

以後、連芸の子孫が代々これを嗣(つ)ぎ、その間に羽柴(はしば)(豊臣)秀吉をはじめとする有名武将から送られてきた文書等の貴重な資料が多数保存されています。

こうした名門の寺院だけに、京都の公家や名家との婚姻関係も深く、元和(げんな)年間(1615〜1624)には毛利元就(もとなり)の孫娘藤が、連芸の孫准超(じゅんちょう)のもとへ嫁いできています。

境内の玉垣(たまがき)で囲まれた大杉の枯れ木は、蓮如上人の「お箸杉(はしすぎ)」と呼ばれ、上人の遺徳を偲(しの)ぶよすがとして親しまれています。

名塩の紙漉き

名塩の紙漉き

名塩紙漉(す)きの起源については色々な説がありますが、 水上勉(みずかみつとむ)氏が小説化して有名になった『名塩川』にあるように、東山弥右衛門(やえもん)が越前(福井県)に入り苦心の末、紙漉き技術を習得して村に帰り村人達に伝えたという説と、本願寺の蓮如上人(れんにょしょうにん)が1475年に名塩に訪れた時、越前より随行してきた紙漉き職がとどまって製紙を始めたという説、1580年名塩の杣木挽(そまこびき)が木曽路に出稼ぎ中、同地で製紙を習得して帰り、村で始めたという説、東山弥右衛門が木曽路で杣木挽をしていた時、越前紙業の名声を聞き、同地に赴(おもむき)技術を習得して帰り、紙業を興したなどの説です。

この時代は、各地の特産物の多くは市場を独占化するため、生産技術などを厳重に閉鎖して門外不出としていましたので、他国の者は簡単には習得して帰ってこられなかったと思われます。いずれにしても、名塩の紙漉き技術は越前から伝えられたということは推測できます。

名塩紙(なじおがみ)は原材料として、山野に自生するジンチョウゲ科に属する雁皮(がんぴ)を用いた鳥の子(とりのこ)で、粘料にはノリウツギの皮の抽出液を用い、その中に粒子の細かい粘土を加えて溜め漉(ためす)き法で仕上げています。

雁皮は栽培出来ないのが欠点ですが、名塩は幸い付近の六甲山系に自生するので原料にはこと欠かず、品質においても他の地方に自生するものと比較して、平均的に優れていたことも、名塩鳥の子紙(とりのこがみ)の発展を生んだ一因と思われます。名塩鳥の子紙は薄くて強靭であり、厚手のものは虫に喰われず、日焼けもしません。薄手のものは金箔(きんぱく)を延ばす際の箔打(はくうち)紙や、屏風(びょうぶ)、襖(ふすま)の下張り用紙に使われました。

鳥の子とは、紙が鳥の卵の色に似ているところからその名が付けられています。名塩では鳥の子紙の仲間の間に合い紙(まにあいがみ)も漉いていました。間に合いとは、どの「間」にも合うということです。

名塩紙は、江戸時代中頃から藩札(はんさつ)用紙にも用いられ、名塩千軒とも言われる程、紙漉きの里として繁栄しました。東山弥右衛門については、紙職の元祖として村人から感謝され、1855年には漉き屋達が、その徳を讃(たた)えて建てた「紙漉き元祖の碑」が卵塔場(らんとうじょう)8に今も残っています。

平成元年には、名塩小学校「和紙学習館」9が建ち、紙漉きが体験出来るようになりました。

武庫川峡谷

武庫川渓谷

武庫川10は丹波篠山(ささやま)盆地に源を発し、西宮の東端を流れ大阪湾に注ぐ延長65キロメートルの河川です。

旧福知山線廃線跡11の渓谷に沿って、5キロメートル枕木(まくらぎ)が続く道を歩いて行くと、合計6か所のトンネルがあり、JR武田尾駅に近い所では、水上勉(みずかみつとむ)の小説『桜守』のモデルになった、笹部新太郎氏が植えた山桜や里桜(ヤエザクラ)を見ることも出来ます。

天平(てんぴょう)3(731)年に書かれたと伝えられる住吉大社神代記には、次のような神話が載せられています。

住吉大神をめぐって、猪名(いな)川の女神と武庫川の女神が争いとなり、猪名川の女神は、大石を武庫川に投げつけました。今も川にごろごろしている大きな岩石は、その名残とか。

溝滝

旧国鉄福知山線の生瀬、武田尾間のほぼ中間、かつて車窓に見え隠れしていた武庫川の流れが、滝のようになって落ち渦を巻いているところを溝滝と呼び、古くは鮎(あゆ)の名所でした。この溝滝から下流生瀬の間の渓流は、毎年夏になると釣り客でにぎわい、その鮎は国鉄生瀬駅で鮎ずしとなって旅客達を喜ばせていましたが、現在は鮎そのものが姿を消しています。

重次郎が渕

武田尾のすぐ近く、武庫川の大きく曲がるところにあるのが重次郎が渕(じゅうじろうがふち)です。宝暦11(1761)年の夏、名塩御坊(ごぼう)教行寺(きょうぎょうじ)の本堂が再建されることになり、その材木を丹波から運び出すため、村人は武庫川にこれらを流しました。ところが、この地点まで来ると、大木が川底にひっかかってどうしても動かなくなりました。その時、重次郎という老人が「これは水の底へ入ってはずさねばならない。しかし命懸けの仕事だから老先短いわしがやろう」と言って飛び込みました。材木は岩から離れて動き出しましたが、重次郎はとうとう浮かんできませんでした。

この渕の崖に、かつては重次郎をとむらった地蔵尊がまつられていましたが、水害のために流されてしまい、今は渕だけが渦をまいています。

高座岩

重次郎が渕から下がってくると川の中に大きな岩が目につきます。これが高座岩(こうざいわ)で、『但馬郡誌』には次のように書かれています。「上面78間、高さ45間、ほぼ方形をなせる大岩石にして、およそ13,824貫、ひとり傑(けつ)然河中に突出し天然の一奇岩なり。旱魃(かんばつ)なら雨乞いを執行する場所たり。……其の儀式は動物の生血をこの岩に塗るにあたり、然らば天、その汚れを厭(きら)ひ洗い去らんが為に、雨を降らすという」。

また次のような伝承もあります。この岩の下は竜宮(りゅうぐう)に通じており、乙姫(おとひめ)様がよくこの岩に遊びに来られていました。それで血で汚されると乙姫様が怒り、大雨を降らせて洗い流しました。

いずれにしてもこの付近は絶好の水泳場で、夏は大いに賑わっていましたが、現在は水泳禁止になっています。

漆が渕

高座岩(こうざいわ)から川幅が次第に広くなり、中国自動車道のあたりまでくると、大きな渕があり、渦をまいています。漆が渕(うるしがふち)です。昔から水死者が多かったのですが、これは渕の崖に生えている漆の主のたたりだと言われていました。しかしその漆の老木も高速道路の工事によって伐採され、渕もその土砂で埋まって浅くなってしまいました。

米が渕

漆が渕から少し川下の太多田(おおただ)橋の近くに米が渕(こめがふち)があります。江戸時代、丹波や三田の百姓達が、大坂で売る米を馬の背にのせて、ここまで来て一文銭を投げ入れ、水底で表が出れば米の値段が上がっており、裏が出れば下がっているとして、米の相場を占ったところであると言われています。

このような古い歴史を持つ武庫川の豊かな自然をぜひ残してゆきたいものです。

武田尾温泉

武田尾(たけだお)温泉の名が世に知られるようになったのは18世紀の中ごろです。文献『摂陽奇観(せつようきかん)』に次のように書かれています。「18世紀中頃、名塩村武田尾の温泉は金竜湯(きんりゅうのゆ)と号し、往古より湧出し云々」

温泉は峡谷の天狗(てんぐ)岩と呼ばれる高さ10メートルの大岩石の下の割れ目より湧き出しています。これを各々旅館が引いて加熱して内湯としています。また、峡谷美に優れ南画(なんが)に見られるような険しい絶壁がいたる所にそびえています。その下を武庫川が流れ、自然な風物が満喫できる仙境となっています。

時折、文人墨客(ぼっかく)が名塩から山越えに訪れていたそうです。幕末から明治維新に活躍した著名な儒者、藤沢南岳(なんがく)も入湯に来ており、武田尾雑詠(ざつえい)と題する、武田尾渓谷の美をたたえる詩を残しています。

明治31(1898)年、阪鶴(はんかく)鉄道(現福知山線)が開通し、武田尾駅が設置されると、武庫川にコンクリートの橋がかけられ、鉄道との連絡が便利になって入湯客が増加し、今日では元湯を含めて近代的な旅館が4軒所在しています(内1軒は対岸の宝塚市西谷地域に所在)。

塩瀬散策コース

JR生瀬駅を出発点に、浄橋(じょうきょう)寺、生瀬街道から国道176号線に沿って木元(このもと)地蔵、八幡神社に詣で、蘭学通を遡(さかのぼ)り名塩小学校前の和紙学習館名塩バス停横の急坂を登って教行(きょうぎょう)寺に行きます。帰りは斜行エレベーターのあるJR名塩駅が便利でしょう。

余力があれば、木元地蔵から高座岩(こうざいわ)に向けて歩き、武庫川峡谷の景観を望みながら旧福知山線の廃線コースを辿ってJR武田尾まで歩くのもよいでしょう。廃線コースを歩くには懐中電灯を持参することをお勧めします。

語り部マップ
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